【東京都民限定】往復高速ジェット船利用 伊豆大島日帰りツアー。伊豆大島の岡田港から大島バスの「あじさい満喫コース」で島内をバス観光⑤。
バスは地層大断面を出発し三原山山頂展望台に向かいます。映像は短いです。
【東京都民限定】往復高速ジェット船利用 伊豆大島日帰りツアー。伊豆大島の岡田港から大島バスの「あじさい満喫コース」で島内をバス観光⑥。
バスは三原山山頂展望台に向かいます。車内ではバスガイドから三原山山頂展望台についてのアナウンスがありました。茶屋での土産物、トイレのこと、三原山山頂展望台での写真撮影について。
また運転手からもアナウンスがありました。母親が利島出身。バスガイドさんが利島と三宅島を間違えていたことなど、冗談を加えながらの軽妙なトークが楽しめました。
三原山は、伊豆大島の中央にある火山で、標高は758mです。三原山は、1777-78年の安永の大噴火の際、噴き上がった大量のマグマのしぶきや大型の火山弾などが降り積もって、現在の三原山の姿となりました。三原山は、観光地として火口を周遊する遊歩道なども整備されています。
この遊歩道は、三原山の火口を一周する絶景ルートで、三原山頂口からスタートし、巨大な山頂火口の周囲につくられた遊歩道を一周し、来た道を戻る初心者の方にもおすすめのコースです。この遊歩道は、火山噴火によって生まれた伊豆諸島最大の島「伊豆大島」の中心に位置する「三原山」を一望できるスポットで、火山活動が生み出した独特な地形や地層、噴火のたびに変化をとげた植物や生き物達の様子を間近で学ぶことができます。この遊歩道は、観光地として整備されており、火口を周遊する遊歩道なども整備されています。
遊歩道の長さは約15km以上です。
三原山の火口を見るためには、歩いて、約6時間程度かかると言われています。ただし、個人差があるため、体力に自信のない方は、十分な準備をしてから挑戦することをおすすめします。
三原山展望台は、三原山の火口を一周する遊歩道の一部であり、火口を見渡せる展望台です。この展望台からは、三原山の雄大な景色を眺めることができます。また、展望台周辺には、御神火茶屋や土産物店、飲食店などがあります。三原山周辺の観光スポットを巡る際には、ぜひ立ち寄ってみてください。
「御神火茶屋」は、三原山の周遊道路の一部にあり、火口を見渡せる展望台にあります。 「御神火茶屋」は、昭和3年(1928年)に創業され、昭和6年(1931年)には、三原山に観光用ラクダがゴビ砂漠やモンゴルから到着し、御神火茶屋から内輪までの往復3キロを50分で結び、5人乗りで、一人1円50銭でした。このことが話題となり、三原山は第一次観光ブームとなりました。 また、御神火茶屋は、昭和27年(1952年)に起きた「もく星号墜落事故」を題材としたミステリー小説である松本清張の『風の息』にも登場しています。店内は、丸太小屋がそのまま茶屋に変身したような雰囲気で、壁には素敵な絵画なども飾られています。また、御神火茶屋周辺には、土産物店や飲食店などもありました
ラクダは、哺乳類・ウシ目・ラクダ科・ラクダ属に分類される動物で、背中に1つのコブ(瘤)を持つヒトコブラクダと、中央アジア原産で2つのコブをもつ2種のフタコブラクダの3種が現存する。ラクダは、砂漠などの乾燥地帯に最も適応した家畜であり、古くから乾燥地帯への人類の拡大に大きな役割を果たしています。ラクダは、一度に80リットル程度の水を摂取することが可能であり、長期間にわたって水を飲まずに行動できる点については昔から驚異の的であり、「背中のコブに水を蓄えている」という思い込みもそこから出たものである¹. また、ラクダは、背中のコブに脂肪を蓄えることで、エネルギーを蓄えるだけでなく、断熱材として働き、汗をほとんどかかないラクダの体温が日射によって上昇し過ぎるのを防ぐ役割もある。
ゴビ砂漠は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠で、東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万k㎡で、世界で4番目に大きい砂漠です。古くから、匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在しました。現在は砂漠ですが、中生代は植物の豊かな地域であり、大型恐竜が多く生息していました。そのため、恐竜化石の世界的発掘地として知られています。2021年、中国はゴビ砂漠に原子力発電所を設置する計画を発表しました。
ゴビ砂漠には、ユキヒョウ、オジロワシ、ゴビムシ、ジャーボア、ゴビベア、ゴビアイベックス、野生のバクトリアラクダなど多くの動物が生息しています。また、ゴビ砂漠には、砂漠の他に山地やステップの植生が見られ、コウジョウセンガゼル、サイガ、ホソユビヤモリ、トカゲ、タタールスナボアなども生息しています。
「シルクロード」とは、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍した、ユーラシア大陸の交易路網のことです。この交易路は、中国の長安(現在の西安)から、シリアやローマなどの西方の諸地域に至る、中央アジアを東西に横断する陸上交通路で、キャラバン・ルートの総称です。シルクロードは、物資だけでなく、思想、宗教(特に仏教)、哲学、科学的発見なども交換され、その多くはそれらに遭遇した社会で融合され、新たな形が生み出されたとされています。また、移民、難民、宣教師、職人、外交官、兵士など、さまざまな人々がこのルートを利用したとされています。
モンゴル国は、東アジア北部に位置する内陸国で、中国、ロシアと接しています。モンゴル人は遊牧民族として有名ですが、牧畜を離れ都市や農村に定住する人々も増えてきています。1990年代初頭に社会主義体制から大統領制に移行し、鉱工業を中心に経済成長を遂げました。モンゴル国の首都はウランバートルで、国土面積は約156.4万平方キロメートルで、人口は約270万人です。
モンゴルの歴史は、モンゴル高原を中心に興亡した国家、民族に関する歴史です。 モンゴル高原は、古代から遊牧民族が暮らしていた地域であり、匈奴帝国や鮮卑、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場となりました。また、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在し、物資だけでなく、思想、宗教(特に仏教)、哲学、科学的発見なども交換され、その多くはそれらに遭遇した社会で融合され、新たな形が生み出されたとされています。13世紀には、チンギス・ハンによってモンゴル帝国が建国され、その後、元朝、清朝などの支配下に入りました。
三原山には、第一次観光ブームがありました。1923年に発表された「波浮の港」が流行歌となり、1933年には火口投身自殺や読売新聞社火口探検が大々的に報道されたことにより、大島の観光ブームが巻き起こった時代のことです。この時期には、三原山滑走場が建設され、観光客が多く訪れるようになりました。
「波浮の港」は、1923年に野口雨情が発表した詞に、中山晋平が作曲した歌曲です。この曲は、伊豆大島の波浮港村を舞台にした歌で、当時の島の生活を描いた歌詞が人気を博しました。この曲は、1928年に佐藤千夜子が日本ビクターからリリースされ、その2ヶ月後には藤原義江が同じくビクターから高額な赤盤レコードとして発売されました。このレコードは当時(2種計で)10万枚を売り上げるヒットになり、日本ビクターの社史では「ビクター初のヒット曲」と記されています。
「三原山滑走場」は、1935年に建設された、伊豆大島の三原山の斜面を滑降するための滑走場です。 滑走場は、カルデラ縁の南西部から間伏方面へ8町半(約900m)のレールが敷かれ、滑走機(スライダー)に乗って外輪山斜面を滑降することができました。この滑走場は、1923年に発表された「波浮の港」が流行歌となり、1933年には火口投身自殺や読売新聞社火口探検が大々的に報道されたことにより、大島の観光ブームが巻き起こった時代に建設されました。滑走機には減速・停止ができる制動装置が備えられており、眼下に太平洋や伊豆半島・他の伊豆諸島の島々を眺めながら、終着点まで約2分で滑降できました。滑走場は、1942年に閉鎖されました。
「もく星号墜落事故」とは、1952年4月9日に日本航空(アメリカのノースウエスト・オリエント航空からのウエットリース)のマーチン2-0-2型機が伊豆大島に墜落した航空事故です。この事故については、原因不明とされています。
当時の日本は第二次世界大戦の敗戦による被占領中で、日本人による自主的航空運営が認められていなかったため、日本航空はアメリカのノースウエスト・オリエント航空から機体を借り、また運航も委託していました。このため、機長と副操縦士ら運航乗務員はノースウエスト・オリエント航空のアメリカ人であったとされています。
事故の詳細については、航空管制誘導の誤りか操縦者のなんらかの過失による墜落との推定がされています。また、当初は乱気流によって機体が降下した可能性や、空中分解した可能性も指摘されたとされています。
事故現場は、伊豆大島南側の差木地にある大島航空標識の無線標識が行っていた場所で、墜落した機体が四散し、乗客・乗務員37名全員が死亡しました。
『風の息』は、松本清張の長編推理小説で、日本における航空がすべてアメリカ空軍によって管制されていた、連合国軍占領下の1952年4月に起こったもく星号墜落事故をもとに、フィクションの形で推理を展開した長編小説です。この小説は、1972年から1973年にかけて『赤旗』に連載され、1974年に朝日新聞社から刊行されました。また、1982年にはテレビドラマ化されています。
1933年1月9日と2月12日に実践女学校の生徒が三原山の噴火口へ投身自殺したことがきっかけで、三原山は自殺の名所として知られるようになりました。この事件以降、同じ年だけで129人が投身自殺したとされています。
この事件について、当時の新聞報道によると、生徒たちは「自分たちが死ねば、世界が美しくなる」という思想に基づいて自殺を決意したとされています。また、当時の社会情勢による影響も指摘されています。
当時の社会情勢は、当時の日本は大恐慌の影響を受け、失業率が高く、貧困層が増加していました。また、当時の教育制度においては、女性の社会進出が限定的であったことも指摘されています。
読売新聞社は、1933年に三原山で火口投身自殺事件が発生した際に、火口内を探検するためにゴンドラを設置し、探検を行いました。この探検により、当時の三原山の様子が詳細に報じられ、三原山は自殺の名所として知られるようになりました。
利島は、伊豆諸島に属する日本の島で、伊豆七島のひとつです。利島の語源については、諸説ありますが、一般的には「鳥島」を意味する「鳥島(とりしま)」が訛ったものとされています。 利島は、縄文時代や弥生時代に作られた土器が出土しており、これらの土器の形式や住居は、関東西部から中部地方のものと似ているところがあるようです。近世以前の島の歴史には不明な点が多いとされています。江戸時代には、利島は年貢の上納を免除され、逆に江戸幕府から米の支援を受けていたそうです。利島は、椿の栽培が盛んであり、椿油は日本一の生産量を誇っています。また、利島産のサザエは非常に大きく、「利島の大サザエ」と呼ばれているそうです。
利島は、東京都に属する島で、約4000年前から人々が住んでいたとされています。
伊豆大島の名前の由来については、諸説ありますが、一般的には「大きな島」という意味の「大島(おおしま)」が訛ったものとされています。
【東京都民限定】往復高速ジェット船利用 伊豆大島日帰りツアー。伊豆大島の岡田港から大島バスの「あじさい満喫コース」で島内をバス観光⑦。三原山山頂展望台に向かう映像。
車内では運転手から以下のような観光アナウンスがありました。
・昔、各集落の小学校は分校も含め7つ、中学港は4つ、高校は2つ。
・今は小学校は3つ、中学校も3つ、高校は2つ。
・高校は都立大島高校と波浮港にある都立大島海洋国際高校です。
・都立大島海洋国際高校はほとんど都内からの生徒が寮に寝泊まりして通っている
・伊豆大島の高校生は卒業後ほとんと東京に出る
・例えば100名いれば、島に残るのは2から3名。
・男の子は親や実家のことがあり戻って来ることもあるが、女子は島に恨みでもあるかのようにほとんど戻ってこない。
・だから、伊豆大島は嫁不足です。
・農業事情について、伊豆大島は玄武岩なので雨が溜まらない。それでコメは取れない。
・飲み水事情について、飲み水は井戸か塩分の含まれた地下水。地下水は脱塩装置を通して飲む。
・御神火(ごじんか)スカイラインについて
伊豆大島には、小学校3校、中学校3校があります。大島町立つばき小学校は、金融機関、諸官庁が集中する伊豆大島の政治、経済の中心地に位置しています。また、大島町メモリアル公園が完成し、子供たちの遊び場としてのみならず、災害復興のシンボルとなっています。大島町立小中学校は、SDGs達成の視点に立った教育活動を展開しています。保・中・高と連携した学習をすすめ、それぞれ専門的な知識や経験のある教員等をゲスト・ティーチャーとして招聘した授業を実践・展開しています。大島高校は、国際交流リーディング校として、国際理解教育を推進しています。大島町は、人間尊重の精神を基調とし、子供たちが、知性、感性、道徳心や体力をはぐくみ、人間性豊かに成長することを願い、学校教育と社会教育の緊密な連携のもとに、だれもが生涯を通じて、あらゆる場で学び支え合い主体的に学ぶことのできる社会の実現を図っています。
東京都立大島海洋国際高等学校は、東京都大島町にある海洋高等学校です。学校の公式サイトによると、本校は「海に学び未来を拓く」を教育理念として掲げ、災害時対応や各種届出にも力を入れているようです。また、本校は海洋実習を行っており、海洋に関する知識や技術を身につけることができます。2023年度の入学者選抜については、推薦に基づく選抜と学力検査に基づく選抜があります。本校の寄宿舎もあり、生徒たちはそこで生活を共にしています。本校のアクセス方法については、公式サイトに詳細が記載されています。
東京都立大島海洋国際高等学校は、1946年に東京都立大島農林学校水産科として設立され、その後、東京都立大島新制高等学校水産科、東京都立大島高等学校水産科、東京都立大島南高等学校を経て、2006年に現在の名称に改称されました。本校は、海洋に関する知識や技術を身につけることができる海洋高等学校であり、海洋実習も行っています¹. また、本校は全寮制を採用しており、生徒たちはドミトリで集団生活を営んでいます。
伊豆大島は、東京都に属する伊豆諸島の一部で、約 3,000 人が暮らしています。伊豆大島の農業は、花卉類の栽培が盛んであることが知られています。伊豆大島農業生産組合によると、伊豆大島では、明日葉やキヌサヤなどの野菜を生産しているそうです¹。また、伊豆諸島の農業算出額は、2020 年に約 26.4 億円であり、伊豆諸島の中で大島町が最も多くの農業算出額を持っているそうです。
水事情については、伊豆大島は淡水に乏しく、昔は水の苦労が絶えなかったそうです。現在は、塩水を膜濾過して飲料水・生活水として利用しているそうです。ただし、雨水を貯めるための貯水槽が設置されている家庭もあるそうです。
伊豆大島の水道水は、硬度が50~70ppmで推移しているそうです。伊豆大島は淡水に乏しく、塩水を膜濾過して飲料水・生活水として利用しているそうです。
伊豆大島の農業は、花卉類の栽培が盛んであることが知られています。伊豆大島の農産物直売所『ぶらっとハウス』によると、伊豆大島では、切り花類を栽培している農家が600戸、花木類を栽培している農家が183戸あるそうです。また、同施設では、伊豆大島の新鮮な花卉類を販売しています。具体的には、ブバルディア、アジサイ、ヒマワリ、コスモス、ユリ、カーネーション、アルストロメリア、アネモネ、スイートピー、ハスカップ、ハーブなどがあります。
御神火スカイラインは、伊豆大島の三原山に至るルートのうちの一つで、全長約6km、獲得標高約500mのヒルクライムルートです。伊豆大島ライドのブログによると、御神火スカイラインは三原山の火口をお鉢巡りするルートのうちの一つで、太平洋を眺めながら緑豊かな道のりを走ることができます。難易度については、伊豆大島の公式サイトによると、御神火スカイラインは「初級者から中級者向けのコース」とされています。また、伊豆大島ライドのブログによると、御神火スカイラインは「比較的緩やかな上り坂が続くため、初心者でも楽しめるコースです」。ただし、伊豆大島の地形は複雑で、天候によっては危険な場合もあるため、事前に情報収集を行い、適切な装備を準備することが重要です。
御神火スカイラインは、ヒルクライムルートであり、徒歩での利用は想定されていません。
「ヒルクライムルート」とは、山や丘陵の登り坂に設定されたコースを走り抜けるタイムレースの登坂競技のことです。この種目は、自転車競技の中でも特に山岳地帯で盛んに行われており、辛く苦しい上り坂を制覇したときの達成感が格別だとされています。一方で、ヒルクライムルートは、自転車競技だけでなく、ヒルクライムイベントやヒルクライムツーリングなど、自転車以外の分野でも広く用いられています。
【東京都民限定】往復高速ジェット船利用 伊豆大島日帰りツアー。伊豆大島の岡田港から大島バスの「あじさい満喫コース」で島内をバス観光⑧。
車内では運転手から以下のような観光のアナウンスがありました。
・三原山の標高が758メートルで、よく「名古屋」と覚えよといわれている
・伊豆諸島で一番高い山は八丈島の八丈富士で854メートル。
・最近の三原山の噴火は、昭和25年6月、昭和61年で、小規模でした
・小規模噴火の周期は、30年に1回の割合
・大規模噴火の周期は、200年に1回の割合
・今、200年周期と30年周期を同時に迎えているので、今後の噴火は大規模か?
・ただ、今、地震予知観測装置の数値は落ち着いている
・災害後木々がなぎ倒され、ふもとの元町が良く見下ろせるようになりました
・元町の正面にある伊豆の稲取までは28キロ
・元町の正面にある伊東までは35キロ、熱海までは46キロ
・このあたりには3つのプレートがあり、北米プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート
・伊豆大島はフィリピン海プレートの端に乗っている
・毎年2から4センチ、伊豆諸島は本州に近づいている
・100万年もするとこの島は車で行けるようになるかも?楽しみですね
・三原山山頂展望台到着後の案内(レストハウス、茶屋(名代 歌乃茶屋〈うたのちゃや)、トイレなど)
八丈富士は、伊豆諸島の最高峰で、標高は854mです。八丈島に位置し、八丈富士と三原山の2つの海底火山が接合してできたヒョウタン型の島です。八丈富士山頂の火口を一周する「お鉢めぐり」がメインのトレッキングコースとして人気があります。八丈富士の山頂からは、360°の海と町並みのパノラマを楽しめるほか、晴れていれば八丈小島を眺めることもできます¹。また、三原山などのダイナミックな自然と景観をお楽しみいただけます。
伊豆大島は、フィリピン海プレートの最北端に位置しています。このプレートは、年間約4cmの速さで北北西方向に移動しており、ユーラシアプレートとぶつかるところで沈み込んでいます。伊豆半島が特殊な成り立ちをしていることを知るために、まずは日本列島がどのようにできたか見てみましょう。日本列島は、まるでブーメランのような形をしていますね。なぜ日本列島は「曲がった」のでしょう?日本は、恐竜がまだ生きていた白亜紀と呼ばれる時代には、ユーラシア大陸の東端にくっついていました。約2500万年前頃になると、プレートの沈み込みの影響で火山噴火などの活動が激しくなり、大陸の縁が割れ始めます。割れたところに海が入り込み、やがてそれは日本海になり、大陸から離れてく大地が日本列島を形成していきます。この際、陸地は観音扉を外から中に押し開くかのように、現在の西南日本は時計回りに、東北日本は反対周りに動いていきました。現在の位置にほぼ落ち着いたのは、約1400万年前頃です。実はまだこの頃、伊豆は日本列島の仲間入りを果たしていません。伊豆半島の成り立ちについては、地層などの証拠などによって約2000万年前までたどることができます。約2000万年前、伊豆は本州から数百km南、現在の硫黄島付近の緯度にありました。この頃の伊豆は深い海の底で活動する火山の集合体(海底火山群)でした。伊豆大島は、誕生したときから大陸と接したことがない、周りを海に囲まれた海洋島です。
プレートとは、地球の表面を覆う、厚さ約100kmの岩盤のことです。地球上には十数枚のプレートが存在し、大陸プレートと海洋プレートに分かれます。海洋プレートは大陸プレートよりも密度が高く、強固なため、2つがぶつかると海洋プレートは大陸プレートの下に沈んでいきます。プレートの動きによって、地震や火山噴火などの現象が引き起こされることがあります。
伊豆大島は本州に近づいていると言えます¹。ただし、年間の移動距離は約5cm程度であり、数万年後に本州に接近すると予想されています。伊豆大島が本州に接近すると、地震や火山噴火などの自然災害が発生する可能性があります。また、伊豆大島が本州に接近することで、地形が変化し、新たな地形が生まれる可能性があります。ただし、このような変化が起こるには、数万年から数十万年の時間が必要であるため、人間の寿命では観測することができません。
【東京都民限定】往復高速ジェット船利用 伊豆大島日帰りツアー。伊豆大島の岡田港から大島バスの「あじさい満喫コース」で島内をバス観光⑨。
車内ではバスガイドから以下のアナウンスがありました。
・バスへの集合時間は12時25分です。
観光バスで伊豆大島の三原山の山頂展望台まで来ました。利島がかろうじて見えました。時間は11時32分です。
三原山は、伊豆大島の中央に位置する標高758mの活火山で、中央火口丘にある三原新山が最も高い峰となっています。伊豆大島は、幾度となく噴火を繰り返して成長した火山の島であり、島の中央にそびえる三原山は、昔から噴火を繰り返し、「御神火」として畏れ敬い神として崇められてきました。三原山は、伊豆大島のカルデラ内の南西部に位置する中央火口丘で、主に玄武岩質マグマスパター、スコリア、火山弾、火山灰の累積から形成されています。三原山のカルデラ内には、1986年に噴火した際の溶岩に埋められた火口があり、ほぼ平坦だがやや南部寄りに径約300m、深さ約200mの竪坑状火孔があることが知られています。三原山は、観光地として火口を周遊する遊歩道なども整備されており、伊豆大島のシンボルの一つとなっています。